若手の成長を舞洲から。オリックス選手寮長は“王とイチローに投げた男”。

今年3月より兵庫県神戸市内から大阪市此花区の舞洲地区に移転したオリックス・バファローズ選手寮「青濤館」。選手をあらゆる面でサポートするための最新技術が数多く導入された建物には室内練習場も併設されている。

その青濤館の寮長を務める人物が宮田典計氏だ。宮田氏は阪神タイガース、阪急ブレーブスで活躍した元選手で、引退後、打撃投手を務めた後に球団フロント入りし、スコアラーや選手の査定担当などを経て2013年より青濤館寮長となった。

若い選手の芽が出るように陰から支え続ける宮田氏の現役時代の話から、寮長としての仕事、選手の生活の様子などを伺っていく。

(取材・文:森 大樹)

 

“世界の王”に最後に被弾した投手。

野球を始めたきっかけは?

小学生の時はソフトボールをやっていて、野球は中学校で軟式野球部に入ってからですね。そこから高校で硬式野球をするようになっていったと。

ソフトボールも小学校の体育の授業でやっていただけなんですけどね。私が住んでいたところは、今みたいに小さい頃から少年野球が出来るチームとかは無かったですから。50年前の話ですしね。

 

−憧れの選手はいましたか?

私の地域はタイガースのファンが多かったですし、テレビ放映も多かったですから阪神ファンでした。プロを意識したのは田渕(幸一・阪神、西武で活躍)さんが入ったぐらいの時かな。でも中学生の進路指導の時にプロ野球選手になれたら良いなと思ったのは覚えています。だから阪神から指名されたのは嬉しかったです。

 

現役時代に印象的だった出来事を教えてください。

(※)話題として残ることならやっぱり王さんかな。イベント的には大きなものになったと思います。私自身が現役の時に良い成績が残せたわけじゃないので。

1軍での通算成績も1勝1敗で終わりましたし、1軍と2軍を行ったり来たりで結局半分ずつぐらいいましたかね。

1軍では3人選手を余らせておく、「あがり」という枠があるんです。前の日に投げる人、次の日に投げる人、出場予定のない関係のない人といった形でチームに帯同する1軍登録選手28人中3人が「あがり」になるんです。ただ、「あがり」の3人中2人は先発の候補ですし、当時は中4日とかで投げていたから投手登録は10人だけでした。だから残りの1人はそんなに使わないピッチャーか、故障がちの野手を選んでベンチから外すんですよ。そこで僕はよく外されましたね。

選手としては5年半阪神にいて、その後阪急にトレードに出されたんです。最後、10年目になる時にバッティングピッチャーをやってくれと言われて、それが現役をやめるきっかけになりましたね。

※宮田氏は1980年11月16日に行われた阪神対巨人のオープン戦(熊本・藤崎台県営野球場)にて、現役最終打席を迎えた王貞治氏にホームランを浴びている。

コントロールを買われ、打撃投手に転身。

−バッティングピッチャーも誰もができる役割ではないと思います。

もちろんそれはコントロールがないとダメです。私はコントロールだけは自信があったから。でも体が開くのが早くて、打者にボールが見えやすいというのがあったんですよ。だから2軍では抑えるけど1軍だとちょっとしんどいなっていうのがあって。そういうのもあって早く辞めたんですね。今の投手もスピードとコントロールの妥協点を探していくんだろうなと思って見ているけど。

 

−球数を多く投げることになると思いますが、バッティングピッチャー特有の悩み、難しさを教えてください。

投げる方は同じフォームとタイミングで同じ球質のボールを投げる。それに合わせて打つ方が勝手に前に来たり後ろに下がったり、早めにタイミングを取ったりなどして自分で調節するものなんですよ。そうなると投げる方は常に同じように投げなければならないわけで。それがしんどいんですよ。肘・肩が張ったりとか疲れたりしますから。でもそれを出来るようにするための努力はしたかな。

あの頃、阪急のバッティングピッチャーは選手と同じようにトレーニングするように言われていたんですよ。今のバッティングピッチャーは選手のウォーミングアップから外れてるけど、僕らの頃は選手と一緒にランニングしたり、ダッシュしたりもしていました。

その中で自分が投げた選手がどんな成績を残してくれるか、という新たな楽しみはありました。むしろそういう方向に喜びが変わる他無かったです。そしてチームが勝つ事と。

きついのはキャンプの時ですかね。1分間に7球、5分で35球。合計6人に放って210球。球数は多くて1日そのぐらいですね。キャンプは4日練習をやって1日休みというサイクルで、 200球を超える日とそれ未満の日を繰り返していく感じです。今は打つ本数が決まっていて、それが終わると交代するのですが、僕らの頃は5分間投げ続けるので、打っている方もしんどかったでしょうね。逆に今のバッティングコーチは何本も打つのではなくて、1本を大切にという考え方があるんじゃないかな。

誰を相手に投げるのかは決まっています。バッティングコーチが割り当てるので。クリーンナップには良いバッティングピッチャーがついてると思います。

 

現場から球団フロントへ。選手を評価する査定担当の仕事。

−フロント入りしてから、野球の見方に違いは出てきましたか?

どちらも野球に関係する職だったから、特にないかな。バッティングピッチャーはイチローがメジャーに行く前の年にやめなさいって言われたんですよね。なぜかというと選手の査定を担当してほしいと言われて。そうなると特定の選手だけに関わり続けるのはいけないですから。

でもイチローが社長に僕にもう1年バッティングピッチャーをやって欲しいと直談判に行ったんですよ。だから最後の1年は査定担当をしながらイチローに投げました。

 

−宮田さんはイチロー選手の何がすごいと思いましたか?

準備の部分はすごかった。スコアラーには選手から今日、明日の相手の先発ピッチャーについて質問が来るんです。でも彼は次のカードのピッチャーまで頭に入っていて準備が出来ています。むしろ僕らがこの3連戦で頭がいっぱいでそこまで手が回らないなんてことがありました。

 

−選手の査定は明確な基準があって評価するものなんですか?

そうですね。例えばホームランを打つと何点、加えて勝っているか負けているか、何点差あるか、などの状況毎にプラスマイナスがあります。

もちろん勝った試合は点数高いですよね。勝ち試合が多いと点数が高くなるから給与も上がっていくわけで。

バントはそのあと点に繋がると更に加点です。ファインプレーはプロ野球選手としてお客さんを喜ばせるから加点されます。ただ、お客さんを喜ばすためにわざとスタートを遅らせたりしてファインプレーに見せてもダメですよ。

査定担当は私が1人でやっていました。今は後輩がやってますけど、引き継ぎの時は2人の査定判断の感覚を合わせるために半年一緒にいました。

 

<後編に続く>

 

【プロフィール】
宮田 典計(みやた のりかず・野球/オリックス・バファローズ選手寮「青濤館」寮長)
1954年9月27日生まれ。兵庫県出身。兵庫県立社高校、鐘淵化学(カネカ)を経て1975年ドラフト3位で阪神タイガースに入団。1981年に阪急ブレーブスにトレード移籍し、1984年に引退。翌年より打撃投手に転身し、イチローの打撃投手も務めた。その後は球団フロント入りし、スコアラー、査定担当など経て、2013年より青濤館寮長に就任。

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